2013年5月9日木曜日

宮城~福島縦断旅行 その3

5月1日(水)

 ホテルのラウンジでモーニングを食べていると、「お前の滞在期間中は低温と強風に祟られっぱなしだよ」と、天気予報のおねーさんに宣告される。

 まあ覚悟の上で来てるけども。

 中二日は基本的には移動日というのもあって、google mapで道中のルートを考えるうち、昨日も寄った七ヶ浜の北東端、仙台火力発電所の脇に小さな漁港を見つけた。

 ここも津波の痕跡が生々しい。


歯抜けになった松林の向こうに見える発電所も、大きな被害を受けたそうだ。 

 沖向きの堤防にひとりだけ投げ釣りの人がいて、時々いい型のアブラメを釣り上げていた。

 目の前の水道を遊覧船が通り過ぎていく。

 港内は思いのほか水深が深く、ゆっくりラインを沈めて藻の間を狙ったり、崩れた岸壁沿いに流してみたりしたが、特に反応はなかった。

 外向きに投げてみたかったが、折からの強風に加え、ホンダワラが大量に茂っていて、とてもフライでは探れそうになかった。

 港の一番奥には大量のアミがいて、周囲で小魚が跳ねていた。

水中の白いものが全てアミ
豊饒の海を支える重要な餌生物。

 さらにその周りにいるであろう魚食魚を探るも、かかって来るのはゴミばかり…ありゃりゃ。

 まぁ時合とか潮とか一切考えてなかったからねぇ…。

 散歩に来ていた地元の人と少し話した後、道具をたたんで漁港を離れた。

 利府町あたりを走っているとき、トイレと道中の飲み物を確保するためにファミマへ入ったら、あれだけ地元を探しても出会えなかった「メイコの日本酒」がしれっと置いてあった。

めーちゃああああ(ry
二軒のフライショップで、長らく探していた西山さんのバスビデオほか色々と手に入れた後、JR東仙台駅近くの「鐘崎」で笹かまと牛タンスモークを買い入れ、混雑が予想される仙台中心部を避け、仙台東部有料道路で山元町まで南下する。

 左手には、広々と開けた「宮城野」が見渡せ、どのくらい向こうにあるのか、はるかに霞む松林。

 その先は海。

 国土地理院の浸水マップによれば、津波はこの高架を越えて、さらに内陸まで達したらしい。


 代掻きの時期にも関わらず、塩水に浸かった田んぼには、冬枯れの雑草が茂っていた。

 塩害の解消と雇用、産業の確保のため、ここで綿花を栽培しようという動きがあるそうだ。


 岩沼I.C.を過ぎたあたりで交通量は激減、やがて片側一車線になり、そのまま山元町で国道6号に合流する。

 料金所を出てしばらく走り、ナビに映ったため池を見に行くと、地震で崩れたのか土手の工事で水はほとんどない上、フェンスがしてあって「釣り禁止」の看板が…あらら。

 再び国道6号線に戻り、ひたすら南下。

 交通量は相変わらずだが、工事関係の車の比率が高くなってくる。

 やがて阿武隈山塊の東端にかかり、国道は谷間を縫うようにアップダウンを繰り返す。

 とある谷あいに差し掛かったところ、道端に「ここより津波浸水区間」の看板が設置されていた。

 どう見ても谷底から標高20mくらいはあるし、左手は山に遮られて海なんか見えない。

 にわかに信じられなかったが、少し下った道端には、破れたビニールを纏った枯れ木があり、道の西側に伸びる谷間の田んぼは土手が崩れ、灰色の地面に点々と雑草が生えていた。

 津波はこの谷間を駆け登っていったらしい。


 そのうち宮城-福島の県境を越え、新地町に入る。

 県境の小さな峠を越したところに池があり、ちょっと寄ってみることにした。

 車を止めると、土手側にスピニングを持った防寒着姿のバサーが何人かいたが、相変わらず風は強く、気温も10℃前後。

 しばらく広いシャローへキャストを続けたが反応もないし、寒さが我慢できなくなったので撤収。

 悉くお天気おねーさんのおっしゃる通り。


 6号線へ戻り、相馬方面へさらに進む。

 やがてナビは6号線をはずれ、相馬の市街地へ向かう道を示した。

 次の目的は「鳥久」の相馬牛。



 夕飯には早く、昼飯には遅すぎる時間だったが、店主ご自慢のやわらかくて肉汁たっぷりの焼肉定食は、噂どおり実に美味かった。

 レジのおばちゃん曰く、「震災後にボランティアで来た全国の学生さんたちが、地元でこの店を宣伝してくれるから、それを聞いて来てくれる人が多いよ」とのこと。

 お土産兼晩飯、そして酒のアテとしてミンチコロッケを買い、松川浦のそばにある釣具店へ。


 ここの店主は以前から頻繁にブログを更新していて、線量含め現地の様子をこまめに伝えているので、少し話を聞いてみたいと思って寄ってみた。

 たまたま店主が不在だったため、間繋ぎに店主の親父さんが相手をしてくれていたのだが、しばらくすると店主が帰宅したので、改めて当時の話やこれからの話、自分がこの二日で見聞きして感じたこと、神戸の震災のときはこうだった、など長々と話し込んだ。

 店主からは、問題の解消は一代では無理だと腹を括っていること、相馬市内でも被害の度合いやその立場によって認識のギャップがあること、原発の恩恵を受けながら、今は被害者然としている人間たちへの怒り、後継者問題を含めた漁業者の憂鬱、旧30km圏内の被災当時そのままの地区の話、真偽不明の奇怪な目撃談、その他いろいろなことを聞いた。

 「現地へ行けば何か見えるかなと思って来たんですけど、余計にわからなくなりました」

 「なるようにしかならないよ」


 なるようになる。
 
 なるようにしかならない。

 あの頃の神戸も結局そうだった。

 膨大な時間と、日々の地道な積み上げしか方法はない。

 少し買い物をして店主に別れを告げ、夕暮れの松川浦を後に今日の宿へ向かった。

 翌日は長時間運転になるので、ルートと時間配分を考えながらメイコ酒を飲み、アテをパクつくうち、眠くなってきたので風呂に入ってすぐに寝た。


いつもより酒の回りが早かった気がしたが、メイコ酒のせいではないと思う。