2015年2月16日月曜日

「VOCALOID Opera 葵上 with 文楽人形」を見てきた

かなり久々のボカロネタ。

元町で上映されていると聞いて、ちょっと見てきた。

あ、万が一、検索で辿り付いた人のために予め書いておくけれど…

『気にするな、どうせたいしたことは書いていない。』


上映は13:00過ぎからなので、30分ほど前に阪急花隈に到着。

そこから元町商店街を歩いて行くつもりだったんだけど、久々に元町へ出たのもあって、「老祥紀」(南京町の店は"記")の豚まんを食べてから行くことに。


上映時間10分前に入場。

上映ラインナップを見ると、韓国映画と台湾映画にがっつり挟まれていた。

…ああ、そういうポジションなんだ、と。

館内の客席には10人ほどがいた。


いづこもおなじで、事前に近日上映作品の短い予告映像が流れるんだけど…どうもあれが苦手。

特にベタで叙情的なロードムービー風の邦画、おめーはダメだ。


本編が始まる前には、まずは人形遣いの吉田幸助氏による口上。

「面白いと思ったら拡散希望、面白くなかったら、そのまま黙っといてください」て、いやいやいや。

口上の中で元町や神戸について触れていたので、各上映館によって口上は違うのかもしれない。

そして結月ゆかりの3Dモデルによる諸注意の後、いよいよ上映開始。


本編のあらすじについては、既にあっちこっちに書かれてるから割愛。


上映後、足早に出てくる客に紛れていると、出口付近で話をする女性二人組。

「ボカロの歌声って苦手で…耳に刺さるんですよね…あ、ボカロっていうのは合成音声で…」

なんでそんな人がわざわざ見てるねん、と思ったら、次の時間から上映される台湾映画特集の時間つぶしで見ていたらしい。

話の筋が筋なので、狂気の表現として金切り声で叫ぶような歌が続いたとはいえ、ミクよりよほど人間的な、結月ゆかりや猫村いろはの声ですら苦痛なら、もはや全く許容できないんだろうなぁ、などと。

外へ出ると、劇場前には台湾映画目当ての、数十人の開場待ちの人垣が出来ていた。


以下つらつらと。


ボカロPである「ヒカル」は、話の冒頭にヘッドホンをした黒子の姿で登場するだけ。

まあ元ネタである能楽「葵上」でも、光源氏は名前だけしか出ないので、そこは同じなんだけど。

当然ながら作中、彼の口から「ミドリ」について語られることは一切ない。

まあ所謂「ボカロは楽器」として、そのキャラクター性に拒否反応を示すボカロPというのは、別段珍しくはなかったわけで。

それどころか、そういう側面を大っぴらに批判した上で離脱して、淡々と自作曲を上げるも見向きもされず、いつの間にか界隈にしれっと戻っているような人も何人かいたなぁ、とか。

けれど、最近はそういうこともすっかり聞かなくなった。

そういう意味では「ヒカル」は、比較的初期のPだったのかな、とか…。

まあそういう人が目に付かなくなったのは、界隈が最適化されたというか、今やニコニコインディーズとか音雲とかもあるし、というか。

まあ無駄に荒れても互いに消耗するし、ためにする議論なんていうのは不毛のきわみで、現にそれでyoutube板の本スレは廃れたわけだし、炎上による売名というのも昔ほど恩恵がないというか、もはやデメリットの方が大きいし、今となってはせいぜいアフィブログを含めたネットイナゴにエサを与えるだけで、いずれにせよいいことなんて何もないんだけども。

かつて何度も起こったあの軋轢が、そのまま界隈の熱量を示していたのであれば、表面的には実に穏やかな現状は良いのか悪いのか。

まあ製作者であるtamachangchanこと田廻氏の過去ツイートを遡れば、そのへんは見えてくるんだけど、表現者の発言ではなく表現そのものを見よ、ということで、それには敢えて触れない。


あと、作中にはミクの名や歌声こそ一切出ないものの、「ミドリ」のイメージは一貫して「巨大なツインテールを持つ少女の影法師」として描かれる。

脳裏に焼き付けられたような、ぼんやりとした影…頭の中でリンクするのは、かつて何度も聞いた「ミクのムーブメントは信仰に似ている」という話、そして「ミクという存在は、我々にかけられた一種の『呪い』ではないか」という話。

そもそも「ヒカル」だって、別に「ミドリ」のことを忘れたわけではないのだろう。

ユニット活動10周年ということだったから、もしかしたら当時とはOSの仕様が変わって、「ミドリ」が起動できなくなっただけなのかもしれないし。

さておき、世の人は「ミドリ」の名を口にすることはなくなり、そして「ヒカル」も「ミドリ」に自作曲を歌わせるということはなく、やがてユニット結成10周年を記念して、「ヒカル」はかつての「ミドリ」の持ち歌である『慈救咒』を「アオイ」に歌わせようとする。

「アオイ」は元々「ミドリ」の歌声に惹かれて歌い始めたので、そういう意味では『ボカロ=楽器』な「ヒカル」より「アオイ」のほうが、「ミドリ」という存在の刷り込まれ方=思い入れ=『呪い』は強いだろうし、現に「アオイ」は「ミドリ」の歌だから、と、『慈救咒』を歌うことを一度は拒んでいる。

この時点で既に「ミドリ」の『呪い』は発動していた、とも言える。

結果的に「アオイ」の中の「ミドリ」は呪詛を吐き尽くして気が済んだのか消え失せ、やがて「アオイ」は文字通り憑き物が落ちた状態で『慈救咒』を歌う。

「ミドリ」に、ただの楽器としてしか接していなかったため、『呪い』と無縁だった「ヒカル」

「ミドリ」の歌声に惹かれ、魅入られ、やがて『呪い』の発動をもって「ミドリ」と決別する「アオイ」

全てを目撃し、ラストシーンでノートPCを前に、ひとり物思いにふけるマネージャー


残念ながら作中では「ヒカル」が「アオイ」をどう見ているかまでは語られていないが、原典たる源氏物語の光源氏のその後を考えれば…いや、やめとこう。


自分はあくまで一介の聴き手、いわば再生数「1」に過ぎないんだけど、それでもムーブメントの比較的初期から一貫して見守り続けているという自負はあるので、その刷り込まれ方=『呪い』たるや、えらいことになっているのではないかと。

逆に自分が書き込んだコメントで、他人に図らずもかけてしまった『呪い』もあるのだろうなと。

言葉や文字は、それそのものが一種の呪詛である、というのは、よく知られた話で。

まあ、こうやって誰に宛てるでもない駄文を、夜中にだらだらと書きなぐっていることこそ、その刷り込み=『呪い』の結果であり、それこそ『呪い』を拡散させる行為なのだろうけれど。